グッド・バイ

未完の存在

メモ

メモ

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1:あなたが特別な存在だと思ってはならない
2:あなたが人と同様に有能だと思ってはならない
3:あなたが人より賢いと思ってはならない
4:あなたが人より優れているとうぬぼれてはならない
5:あなたが人より物知りだと思ってはならない
6:あなたが人より重要だと思ってはならない
7:あなたが人より何かに秀でていると思ってはならない
8:あなたは人を笑ってはならない
9:あなたが誰かに助けてもらえると思ってはならない
10:あなたが人に何かを教えられると思ってはならない
世界の中でも「幸福な国」として知られるデンマークに伝わる「ヤンテの掟」

メモ


私はうつ病です。昔の事も思い出せず、感動せず、感情もわからず、物を覚えられず、体を動かすのもつらく、毎日ただひたすら苦しく、生きているだけでお金がかかるのに生きてる意味ってありますか?

長谷部 和彦, 元公立小学校 教諭
回答日時: March 13, 2020
長くなります。よかったら読んでください。

まず、私から提案したいと思います。

私の家に遊びに来ませんか。鹿児島県のとある田舎町で農業を営んでいます。新規就農してからまだ半年余りなので、アルバイトをしながら何とかやっている状態ですが。

独り者です。バツイチです。質問者の方が男性でしたら、何日か泊まっていただいても構いません。

柴犬と猫とヤギ、ニワトリがいます。

以下、陰鬱な内容を含みます。耐性の無い方は読まれない事をオススメします。

私もうつ病でした。

それも重度のうつ病でした。主治医には、最終的には脳に電極をつけて電気ショックを施すことを勧められたぐらいです。

入院治療も2度行いました。

最初の入院は、自殺未遂をしてから運ばれました。施錠された病室に隔離されました。常にモニターで監視されていて、トイレなどハナから丸見えです。

1週間の後、一般病棟に移りました。

職場には、主治医からうつ病の為3か月の休職が伝えられました。

2週間後くらいから、躁状態に入りました。

室内では腹筋、腕立てを繰り返し、外出許可をもらってはランニングに勤しみました。

自分自身が何故うつ病になってしまったのか自省し、退院してから復職する迄のやるべき事リストを作り上げました。

前向きな様子を見て、主治医も退院時期を前倒しにしました。

一月後、退院しました。

退院してから、先ずは主夫業に精を出しました。

過剰なまでの不安と心配を与えてしまった妻の為、早起きして犬と散歩に行き、朝ごはんを作り、掃除、洗濯を済ませ、夕ごはんの買い出しに行き、夕ごはんを作って妻の帰りを待ちました。

週に2回の通院は、あえて15キロの道のりを自転車で通いました。散歩にも出かけ、野の花や小鳥なんかをスケッチしたりもしました。

全てはうつ病を克服するためだけに、日々を過ごしました。認知療法、行動療法、薬物療法すべて行いました。

1か月後、再発しました。

休職期間も残り1か月ともなると、緊張と不安が絶え間なく襲ってきます。また寝れない日々が続きます。食欲もなくなり、何をするのも億劫です。

復職1週間前ともなるとある思いが心を支配します。

(死にたい…)

とにかく私は死にたかったのです。

いわゆる、希死念慮です。

簡単に言うと自殺願望なのでしょうが、色んな自殺の方法を探りました。

結局は首を吊る事に落ち着きました。

妻の居ない日中に、何度も何度もタオルなどで首を吊りました。でも死に切れませんでした。

勇気を振り絞って復職しました。

3か月ほど働いたでしょうか。職場での日々は、私にとって正に地獄でした。常に緊張していました。頭が上手く回転しません。真っ直ぐ歩くことさえままならず、何故か柱や机の角にぶつかりました。トイレに用がなくても頻繁に入り、周りの好奇な目から逃げました。その度にトイレの窓から飛び降りたい気持ちになりました。自殺を試みた人間に対して、同僚は腫れ物に触るように対応します。

毎週末、今日こそはと思い、首つりを繰り返しました。しかし、最後まで出来ません。

私は思い込みの世界で生き、想像の世界で苦しんでいました。

自殺未遂をしてから、うつ病と告知されてから、いやもっとずっと前から私は、私自身の妄想に自縄自縛の状態でした。

あいつは仕事が出来ない。

あいつのせいでみんな迷惑している。

自殺未遂するぐらいなら仕事を辞めればいいのに。

それでも上司は私を励まします。

君なら出来る。死んだ気になってがんばりなさい。みんな君の事を心配しているんだ。恩返ししないとね。

妻も私を励ましてくれました。

折角、頑張って公務員になったのに、今辞めたらもったいないよ。家のローンはどうするの。その年から転職なんて出来ないよ。あなたの大好きな柴犬も手放して、動物も飼えないようなアパートに移る事になるよ。今が頑張りどきよ。

私はもう限界でした。いや、もうとっくに限界だったのでしょう。主治医からは兎に角強い睡眠剤と抗うつ剤を処方してもらいました。

起きていても何時もボーッとしていました。

漢字もどう書くのかよく分からなくなりました。

ひらがなさえ、「あ」と「お」の違いさえよく分からなくなり、度々授業中の計算ミスを子どもに指摘されました。

ある日、子どもに問いかけられました。

「先生、なんで死のうと思ったの?前の先生が、H先生はぼくたちのことが嫌いで死のうとしたって言ってたけど、本当?」

「そんなことないよ。死のうとなんかしてないよ。」

咄嗟に取り繕いました。

代行の先生が、断片的で恣意的な情報を子どもたちに伝えていたようでした。

再休職することになりました。

うつ病の原因は今だからよく分かります。

新しい学校に移動したものの、子どもたちと以前のような信頼関係を築けないことからの自己嫌悪。

同僚とも良好な関係を持てないことからの苛立ち、不安、不満。

それらから派生するように、仕事への自信喪失。

40過ぎても子どもを持てないことへの落胆。

35年住宅ローンの重圧。

自分の故郷が地震と津波で壊滅的な状況なのに、何も出来なかったことへの後悔。

妻とも友人とも、会話が噛み合わないことからの孤独感。

当時の私は客観的に見ても、八方塞がりでした。

でも多くの方たちも、多かれ少なかれ40も過ぎれば仕事や家庭で問題を抱えています。しかし、うつ病にはならないでしょう。だからこそ私は私自身に失望しました。失望感は再休職したことからさらに募り、積み重なった失望感は、絶望感へと集約されました。

再休職して、私はまさに生きるしかばねの様でした。

以前の休職期間のように、前向きにうつ病治療をすることも有りません。ただ、ただ死なないように生きているだけです。

誰かの歌詞にあったように、

私は小さく死にました。

当時の私は死にたいと云うよりも、「楽になりたかった」のです。

40も過ぎて再休職し、再び同僚や子どもたちに迷惑をかけ、上司の配慮や期待にも応えることが出来ず、その上、妻への罪悪感は筆舌に尽くし難いものがありました。

いつ自殺が成功しても大丈夫なように、定期的に遺書を書きました。妻への謝罪、同僚たちへの謝罪、両親兄姉への謝罪、毎日毎日こんな自分が生きていることが申し訳ありませんでした。

妻は週末になると、神社へとわたしを連れ出しました。近所の神社、箱根神社、鶴岡八幡宮、春日大社にも行きました。

2時間で2万円もするカウンセリングも受けました。

主治医から処方される薬は、5種類まで増えました。病院でのカウンセリング担当医は、大学を卒業したばかりのような若い女性です。彼女なりに真摯に私と向き合ってくれましたが、私は彼女から助けてもらえるとはとても思えませんでした。主治医で院長でもあった先生は、薬を処方するだけです。もしうつ病が治らず、教員を退職する事になったら精神障害者として生活保護を受けるしかないと言われました。

一向に良くならない私の状況に、妻は失望し、疲弊しました。あとで知った事ですが、リストカットなどの自傷行為をしていたようです。

毎晩、妻から叱責をされるようになりました。

このままだとどうなるか分かる?あなたがうつ病を治さないとどうなるか分かる?いい加減、治してよ!どれだけあなたが沢山の人たちに迷惑を掛けているのか分かる?だから早く治して!

時には包丁を持ち出され、一緒に死のうと懇願されました。

一度、人は道を踏み外すととことんまで堕ちるのだと思いました。しかも、底がありません。どこまでも堕ちるのです。

生き地獄でした。

翌年の4月、私は別の学校に移動し復職することになりました。

私は私を偽りました。うつ病は治っていません。しかし、治った事にしないと妻がもちません。

治ったと偽り、主治医にも復職を許されました。

復職して、3週間後の朝、自宅の梁に電気コードを括り付け、椅子を倒し首吊り自殺しました。

死んでいませんでした。

気づくと愛犬の柴犬が必死に私を舐めていました。

何も見えません。呼吸が止まっていたのでしょうか。私は必死に呼吸をしました。呼吸を繰り返し繰り返し行うと暗闇に光が差し込んできました。

何故かコードは解けていました。今際の際で、コードを解いていたようです。しかし自分が何をしたのか暫く理解できませんでした。失禁していることに気づきました。脱糞までしていました。眼球は出血し、白目部分は真っ赤に染まっていました。左半身が上手く動きませんでした。

その日、再入院することになりました。

主治医から、電気ショック治療を勧められました。一定の効果は期待できるが、全身に激しい電気ショックが流れるので多少の骨折や記憶の欠落などのリスクは覚悟してくれと言われました。妻の反対で行いませんでした。

もはや、自分が何をしたいのか、生きたいのか死にたいのか全く分かりません。ただただ矮小で卑屈で社会のゴミのような存在だと思いました。

生きている意味などあろうはずもありません。

でも私は生きていました。あの日以来首を吊るのも止めました。何も考えず何もせず、出されたものを食し排泄し、夜になれば睡眠剤でぐっすり寝て朝になれば看護師に起こされ、何もない1日が始まります。

2か月後退院しました。暫くして、教員を辞めました。無職になりました。新築の家も売りに出しました。妻には当然ですが、見放され東北の実家に帰ることになりました。実家にはまだ思春期の姪たちがいたので、兄がアパートを探してくれそこに1人で暮らす事になりました。

私は何も考えなくていいように、中古のゲーム機を買って一日中ゲームをしていました。たまにスーパーに食料を買いに行きますが、誰かに見られるのが恥ずかしくて、短時間で目につくものをそそくさと買ってアパートに戻ります。何も考えません。感情も有りません。風呂にも入りません。歯も磨きません。ある時、履けるパンツが無く、Tシャツを逆さにして履きました。チンチンが寒かったです。

以前の主治医から実家近くの病院を紹介され、紹介状も持たされていましたが、そこの病院に行く事は有りませんでした。もう精神科医も抗うつ剤も睡眠薬も私には必要ありませんでした。

なぜなら私は人の形をした、ただの醜いぬけがらでしたから。

時間も季節も、世間も仕事も、私には何の意味も有りません。物欲、金欲、食欲といった欲求もありません。ただ日々死なないように生き、金を食いつぶし、秋が来て、冬が来て、春が来ました。

定期的に父から電話がありました。その日は今までにない雰囲気で、もうアパートを引き払えと言ってきました。

実家で両親と兄家族と暮らす事になりました。

父は頻繁に私を外に連れ出しました。80も近い父の運転で、被災地の風景を見たり、故郷の野山を見たり、桜を見たりしました。

5月過ぎ、父が帯状疱疹になりました。

6月になると、胃腸に何らかの不調を訴えるようになりました。

7月、近隣の中核病院に入院することになりました。

最初は泌尿器系の病気が疑われ、手術を受けましたがあまり体調が改善されません。その後、ガンが疑われましたが、その部位が分からないと言われました。原発不明ガンと診断されましたが、本人には告知していませんでした。

父が体調を崩してから、病院の送り迎え、入院の準備や手続き、お医者さんの対応など、私が行いました。初めは嫌々でしたが、結局手が空いているのは私しかおりませんから、仕方なく対処していました。

原発不明のガンなので、具体的な治療方針が決まりません。何故か、一時退院が許されました。

退院してから、定期的に通院する事になりました。その日は泌尿器科の受診の日でした。泌尿器の主治医がお休みで代理の先生に診てもらいましたが、受診後父の様子が変で、帰り道に尋ねるとガンだと告知されたと言います。

何年ぶりでしょうか。私の中に忘れていた感情が芽生えました。

怒りです。

その日告知してきた先生は、あくまで泌尿器科の主治医の代理で、しかもガンの部位はおそらく消化器系だろうと言うことで告知する時期は消化器科の主治医と治療方針と共にこれから考えていきましょうという段取りになっていたのです。

父の落胆は見るからに明らかでした。父はタバコも吸いません。深酒もしません。健康番組が大好きで、健康に人一倍気を使っていました。

食事の世話も私が行っていましたが、食欲もめっきり無くなりました。歩くのも酷く疲れるようになりました。

私は消化器科の主治医とアポを取り、抗議の為病院に赴きました。何の相談もなく、科も違う代替先生が告知をしてしまった事に、平謝りでした。

それから私は、ガンについてできうる限り勉強しました。通院の際は、ノートを持ち込んで先生の所見を事細かくメモしました。

PET検査なるものでガンの所在が分かるかもしれないと聞き、検査機のある病院まで連れて行きました。

しかしながら、ガンの所在、及び部位は特定できませんでした。

8月になり、いつも以上に辛そうな父を見て再入院させる事にしました。病院に着くともう自力では歩くことが出来ず、車椅子に乗せて診察室まで連れて行きました。

父は気丈で弱音を吐くことを聞いた事がありません。

私が小学生の頃、車のドアで親指を挟み、骨が見えていても自分で運転し整形外科に行き、夕方には仕事をしていました。

私が中学生の時には、母が粉砕機で薬指を切り落としてしまいました。側にいた父は、すぐさま薬指を拾い、氷袋に入れて母を病院まで連れて行きました。指はくっつきませんでしたが。

そんな父が、自ら車椅子に乗っている姿に愕然としました。

主治医からは、胸水が溜まっているのでお辛いのでしょうと言われました。とりあえず、入院治療することになりました。

胸水を抜いてもらい、多少楽になったのか父に少しだけ笑顔が戻ってきました。後から来た母とも談笑していました。

数日後、父は永眠しました。

死因は、原発不明ガンとのことですが直接的な死因は、窒息死です。深夜になって吐いたものが気管に詰まり、自力では解消されず看護師が気づいた時には亡くなっていたのです。

解剖はしませんでした。

母の取り乱しようは筆舌に尽くし難く、身内一同呆然としました。

それでも、お通夜や葬儀は粛々と進められます。

葬儀が終わり、明日早朝に火葬を残すのみという晩の頃、私は葬儀会場で棺の中にいる父と2人きりになりました。

止め処無く涙が溢れてきました。あんなに泣く事はもはやないだろうと思います。

おそらく1時間ほど泣き続けたでしょうか。その間、私は心の中で同じ言葉を繰り返していました。

(ごめんなさい。ごめんなさい。)

(もう大丈夫だから。)

ほぼ平均寿命とは言え、父は80手前で亡くなるような人ではありません。ましてや、ヘビースモーカーで高血圧の祖父より早死にするような人ではないのです。

では何故、こうも早逝してしまったのか。

原因は、私です。

私の存在がストレスとなり、私のうつ病が治らないこともストレスとなり、40過ぎの息子が無職になって帰ってきて引きこもりになっている現実がこの上なく父に負担を掛けたのは間違いありません。帯状疱疹になったのも、胃腸に不調をきたしたのも、がんと診断されて1か月余りで亡くなったのも、私のせいです。身内は誰も口には出しませんが、みんなそう思っている事でしょう。

それなのに私は、父の棺の前で1時間ほど泣いて泣いて泣き疲れた後、気づいたのです。

うつ病が治ったと…。

皮肉なものです。父の病と死が、私のうつ病を寛解に導いたのです。

半年前まで、私は私の抜け殻でした。

何もせず、何も考えず、ただ無意味に時間とお金を浪費する肉の塊に過ぎませんでした。他人と会話する事は勿論のこと、身内ですら顔を見て話すことも出来ませんでした。

それが3か月前から止むを得ず、父の世話をするようになってお医者さんと交渉したり、看護師と話したり、父の様子を親戚に伝えたりするうちに何となく、うつ病は回復の兆しを見せ始め、最終的にに父の死によって寛解に至ったのです。

父は全く意図していなかったでしょうが、結果的に父の病と死が、私を深い深い谷底から救ってくれたのです。

結局のところ、私のうつ病を治したものは医者でも無く、カウンセリングでもなく、ましてや薬でもありません。タイミングときっかけ、そして行動です。

以下は私の経験則からの私見です。異論がある方もいらっしゃると思いますが、ご容赦ください。

うつ病は、薬で治る病気ではありません。

一般的な解釈としては、うつ病は過剰なストレスなどにより、セロトニン、ドーパミン、ノルアドレナリンといった神経伝達物質が上手く働かなくなり、シナプス間における電気信号が不調となる為、活動性が低下し、感情が失われていくとされています。

抗うつ剤などの薬は、上記の神経伝達物質を良好に分泌させる為のものですが、あくまで一時的なものです。言わば、身体が疲れた時のユンケルみたいなものです。ユンケルのような滋養強壮剤の効果は、有って小一時間ぐらいらしいです。医者に聞きました。寧ろ(俺はりぽDを飲んだから元気だ!)といった暗示の副作用の方が大きいといいます。抗うつ剤も同じです。気休め程度にしかなりません。しかも抗うつ剤を服用し続ける事は何の根本的な解決にはなりません。また様々な種類があり、強いものを飲み続けると廃人になるようなものも有ります。ハイリスクローリターンです。

私が知っている精神科医で、うつ病を本気で治せると思っている人はおりません。彼らは、薬を処方し点数を稼ぎ、報酬を得ているに過ぎません。私が暫く通院していた病院は、正にそうでした。2年ほど通いましたが、沢山の精神病患者で寛解に至った方を私は知りません。私の主治医だった精神科医は、患者を1時間待たせ5分の問診で処方箋を書き、効率よく病院に富を蓄積させます。おそらくそれが出世の処方箋なのでしょう。

先日、NHKドラマで阪神淡路大地震を体験した精神科医の話がありました。患者の話を30分でも1時間でも真摯に聞く先生でした。私もそういう精神科医に出会ったら違っていたのでしょうが。

現実は違います。それでも精神科医に診てもらいたければ、開業医をお勧めします。少なくとも組織の中にいる精神科医はダメです。

カウンセリングもお金と時間がかかるばかりで、効果のほどは期待できないと思います。

中には、行動療法や認知療法で寛解する方もいらっしゃるとは思いますが、私は懐疑的です。

そもそもうつ病の根幹的な治療は何か?

まず、うつ病に至ったストレスを無くすことです。私は公務員という立場や家のローン、世間体などから仕事を辞めるという選択肢を選ぶのか遅すぎました。

そして、死なないように生き、どこかのタイミングで行動を起こすことです。具体性に欠けますが、深い深い闇の中にいて、抗うつ剤や他人の空虚な言葉が一筋の光になる…なんて事は現実的ではありません。

最初はどんな行動でも構いません。ポイントは、うつ病を患ってからした事がない行動です。

よくうつ病を患った人に、「神様から休みなさいって言われているんだよ。」という方がいますが、うつ病患者は休んでいるわけではありません。深く傷つき、深い闇の中でいつ終わるとも分からない嵐が過ぎ去るのを息を殺し、感情を捨て、ただただ耐えているのです。

話が逸れました。

質問者の方は、生きている意味があるかと問いかけられていますね。

私の答えは、「ない」です。

そもそもが、生きているだけで意味がある人間なんてどれほどいるのでしょうか?人間は人間を特別視し過ぎです。過去には、人間ひとりの命は地球よりも重いと言った政治家が居ました。馬鹿げています。

この地球には、既知の部分だけでも175万種の生命体がいるそうです。未知を含めたら500万とも800万とも言われています。その多種多様な生き物が懸命に命を繋いでいます。その中で、何故人間の命だけが尊いと言えるのでしょうか。

周りを見渡せば、ニュースを見れば犬、猫より価値の無い生き方をしている人が沢山います。蜂や蟻よりも生産性の無い生き方をしている人間がありふれています。

人間の命、そのものには意味がないのです。

あるとすれば、意味ではなく「時間」だと思います。

そして時間があるからこそ、「行動」ができるのです。

重度のうつ病患者は、行動が出来ません。

行動が出来ないということは、時間が止まっているのです。

故に今のあなたが、生きている事の意味を問いかけるのははっきりいって無意味です。

それはあなた自身が本当は理解されているはずです。

けれども今あなたがその漆黒の闇を抜け出せるその日が来た時、あなたの(生)に価値が生まれます。あなたが自分の足で、自分の意思で前に進み始めた時、時間が再び動き出します。

生きている限り、意味はなくてもあなたには「時間」がある。時間があるという事は、あなたの人生は何度でもやり直せるのです。

更にあなたが価値ある、より良い行動をとることで、あなたの(人生)に意味が生まれると思うのです。

人の(生)に意味があるとすれば、価値ある行動を実践した時、初めて生まれると思うのです。

人の人生の評価は何で決まるのでしょうか?

財産、出世、肩書き…人それぞれでしょうが、私は行動だと思います。どれだけ価値ある行動を人生で出来たか、だと思うのです。

だからまずあなたがするべき事は、死なないように生きることです。そして、私のようにきっかけを待つか、自らきっかけを作り行動することです。

正直言って、私のようなきっかけを待つことはお勧めできません。

だからこそ、私のところに遊びに来ませんか?

もしかしたら、何かのきっかけになるかも知れません。仮にならなくても、きっかけのきっかけぐらいにはなるかも知れません。

私は今、農業に従事しています。何故、東北から南九州に来て、農業をしているかの経緯は割愛しますが、私はうつ病が寛解してから2年ほどの、50手前のおじさんです。

うつ病が治り、取り敢えず3つの事を目標に掲げました。

①飼っている柴犬を、日本一幸せな柴犬にする事。

②最低限、父の年齢まで生きる事。

③世界の真理を一つでも多く学ぶ事。

です。

農業では、無農薬、無化学肥料での、循環農法を実践しています。なるべく、F1の種に頼らず固定種の種から作付けして、この土地に合った野菜を育て、種取りをして、安全、安心な、究極的には硝酸態窒素を過剰に含まない、ガンにならない野菜作りを目指しています。

知らない土地に来てからの挑戦なので、苦労もありますがやり甲斐も有りますし、生き甲斐も感じています。

何よりも、何度となく死んでしまってもおかしくない我が身がこうしてお天道様の光を浴びて働けることが、嬉しくて嬉しくて仕方が有りません。

昔、ドイツの哲学者が言っていました。

(自らを否定して否定し尽くした時、あなたは超人となるだろう。)

私のうつ病期は、自己否定の繰り返しでした。

もちろん、私は超人には成れておりません。

ただ、周りの人達よりちょっとだけ物事の本質を理解出来るようになったかなと思います。

一昨日、東日本大震災から9年経ちました。

2万人以上の方が亡くなられました。

彼らにはもう時間が有りません。行動を起こすことも出来ません。

だからこそ我々生きている人間は、然るべき行動により、震災を語り継ぎ、亡くなった方たちを忘れずに生きねばなりません。

あなたは生きている。

あなたには時間がある。

あなたは行動を起こせる。

大丈夫。時は必ず訪れます。

最後にアメリカの詩人の言葉をご紹介します。

(寒さに震えた者ほど 太陽の暖かさを感じる

人生の悩みをくぐった者ほど 生命の尊さを知る

これから私は幸福を求めない 私自身が幸福だ)

長文につき、乱筆、乱文ご容赦ください。

メモ

試してみたら失敗した。それがどうしたというのだ。もう一度試せ。もう一度失敗し、よりよく失敗するのだ 。

メモ


メモ








メモ

自律神経を整えて 更年期による体の不調を軽減しよう!