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【人間関係に疲れた】2:8の法則を知ると人間関係が楽になります

「人間関係に疲れた、めんどくさい」人間関係が苦手な人の対処法5つ



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ナルシストとはどんな人なのか。自分に向きがちな意識を外に向けるには?

自分自身や周囲の人がちょっと自己中心的になっているような気がするのなら、そんな時こそ利他的な行動をとってみましょう。ジル氏によると、他者のために行動すれば、自分のことを頭から追い払えるのだそうです。ボランティアをしたり、困窮状態の人に援助したりすると良い気分になるのには、理由があったのです。今度「新しい靴」に散財する時は、自分の1足を選ぶだけでなくホームレスのためにも1足買ってみては、とジル氏は勧めています。あなたは良い気分になれるし、実際良いことをしているし、それでいて物語の中心に据えられるのは、(少なくともその瞬間は)あなたではなく、あなたが助けた相手なのです。そんなお大尽遊びをするお金はない、という人も、別の形で誰かの役に立てるはずです。

もちろん、上記の効能が得られるのは、本物の利他的行動をとった場合だけです。何のしがらみもない状態で、何の見返りも求めずに、他者のために何かをする、という境地でなくてはいけません。チャリティに寄付をしたり、困窮状態の人に援助したりするのは、もちろん立派なことですが、しがらみがあって仕方なくとか、「チャリティに熱心な人」という評価をお金で買いたくて、といった動機ならば、それは利他的行動とは言えません。利他的行動の仮面をかぶったナルシシズムにすぎません。

時間やお金を他者のために提供する習慣をつける、というこの方法に加えて、ジル氏はもう1つ、別の提案もしています。自己中心的な性質も、うまく使えば他者の身になって考えるのに役立つというのです。まずは聞き上手になるところから始めましょう。能動的に耳を傾ける方法を身につけるのです。

具体的には、相手の話を中断しない、反論したり否定したりしない、すぐ自分の話に持っていかない、などの点に注意します。他者の話に耳を傾け、今は相手のための時間であって、自分が主役ではないのだと肝に銘じます。それがうまくいったら、相手の身になって、どんな気分か想像してみましょう。すでに述べたように、もしあなたがちょっとだけ、自分のことで頭がいっぱいになりやすいだけの人なら、相手に共感するのは難しいことではないはず。ただ単に、人の話を聞いている時に相手に共感するのが、自然な習慣になっていないだけでしょう。

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回復した京アニ放火容疑者は、なぜ「優しさ」についてまず語ったのか 凶行から垣間見える「やさしさの偏在」

人からはじめて「やさしさ」をもらった
〈病院関係者によると、青葉容疑者は現在、感染症などの合併症を起こす危険な状態を脱している。自力歩行はできないが、会話は可能という。転院前、治療に携わった医療スタッフに対して「人からこんなに優しくしてもらったことは、今までなかった」と感謝の言葉を伝えたという〉(京都新聞『京アニ事件容疑者「こんなに優しくされたことなかった」 医療スタッフに感謝、転院前の病院で』2019年11月15日より引用)

ある人にとっては、毎日のように与えたり与えられたりするのが当たり前である「やさしさ」。しかし別のある人にとって「やさしさ」は、ほとんど見つけられず、まただれからも与えてもらえず、場合によっては一生涯これと無縁のままで生きていくこともある。

人の「やさしさ」は無限に湧き出すものではない。有限のリソースである。また、個々人がそれぞれに持つ「やさしさ」は、この社会ではだれに手渡すかを自由に決めてよいことになっている。分け与える対象を第三者に強制的に決定されるようなことはない。

その結果として、多くの人から「やさしさ」をたくさん集められる人と、だれからも「やさしさ」を与えてもらえない人へと、ゆるやかに二極化していく。

私たちは、自らが持つ有限の「やさしさ」をだれに配るべきか、つねづね慎重に見定めている。私たちは「やさしさ」を道行く人へ適当に与えたりしない。自分の「やさしさ」を、もっとも喜んでくれる人に与えたいし、もっとも見返りが大きそうな人に与えたいと考える。私たちは「やさしさ」を一種の貨幣のように扱っている。

彼が人生ではじめて「他人のやさしさ」を知ったのは、大量殺人の容疑者になってからだった。自分で自分を破滅させて、多くの人の命を奪い、社会から「とうてい赦しがたい極悪人」という視線を受けてようやく、医療者からの「やさしさ」に触れた。もっとも、凶行によって半死半生の状態にならなければ、その「やさしさ」が与えられることすらなかったのだろう。やりきれない光景だ。

片足を失いたい男
ずっと以前に、匿名掲示板「2ch」に立ったあるスレッドのことを思い出した。

【事故に見える片足の切断方法】
https://2ch.review/cache/view/news4vip/1340291019(2012年6月22日)

そのスレッドの主は「仕事がつらくて明日会社に行きたくない。車に轢かれるか、電車に撥ねられるかなどして足を失くしたら仕事を辞められるかな? 他人に迷惑をかけず、不幸な事故として足を失う方法はなにかほかにないか?」と、冗談ではなく本気のトーンで相談したいと考えてスレッドを立てたようだった。

当然、スレッドの人びとは困惑の色を隠せなかったようだ。言うまでもなく、片足を失う必要性などどこにもないからだ。さっさと退職届を出せばそれで終わる話だ。だが彼はあくまで「不慮の事故によって働けなくなった」という事実があることにこだわっているようだった。

いまなら彼がそう訴えた理由がよくわかるように思えた。

仕事がつらすぎて、現実が苦しすぎて、なんとかそこから脱したいと願う男は、しかし「落伍者」として蔑まれるのも回避したかった。そこで、実社会から「かわいそうだ」と思ってもらうために「名誉の勇退」という物語のもとで社会から去りたいと考えたのだ。

彼は片足を失うことで「無能な落伍者」ではなくて「不慮の事故で片足を失い、惜しまれつつも社会から退場した」という物語のなかで生きることを欲したのだった。片足を失ってでも「名誉の勇退」に彼がこだわったのは、「無能な落伍者」となればけっして与えられることのない、他人からの「やさしさ」あるいは「やさしいまなざし」が欲しかったからだ。

私たちは「やさしくしなければならない対象」に対してはやさしいが、そうでない対象にはとことんまで冷たい。

「やさしさ」の偏在
容疑者の供述を受け、ネット上では大きな波紋が広がった。容疑者の半生に思いを馳せる声、身勝手な言い分だと非難する声──さまざまな声が挙がった。

「(容疑者は)治療に携わった医療スタッフに対して『人からこんなに優しくしてもらったことは、今までなかった』と感謝の言葉を伝えたという」──つまりはそこか…

京アニ事件容疑者「こんなに優しくされたことなかった」 医療スタッフに感謝、転院前の病院で:京都新聞 https://t.co/HXGslvocLT

- 丹治吉順 a.k.a. 朝P (@tanji_y) November 15, 2019
「そういう優しさを犯人が知っていたら、あんな事件は起こさなかっただろうに」的な利いた風な事を言ってる人がいるけどな。

この容疑者も観ていて、この容疑者が焼き殺した人達が作っていた作品は「この世の中のどこかには掛け値無しの優しさがあるんだよ」という事を訴えていた作品なんだぞ。 pic.twitter.com/cphHUQ4g0N

- Katana Edge@中2超美少女 (cv: 広河太一郎) (@amiga2500) November 15, 2019
「容疑者となった彼にも他人の『やさしさ』に触れられる機会があれば、このようなことにはならなかったかもしれない」という声も少なくなかった。 ──たしかにそうかもしれない。だが、あるいはこうも言えるだろう。「掛け値なしのやさしさがこの世に存在すること自体を知ることがなければ、これほど苦しまずに済んだかもしれない」と。

──人は「やさしさがない」ことによって苦しむのではない。自分と他人を比較して、「“自分のもとに”やさしさがない」ことを知って苦しむのだ。

自分のもとには「やさしさ」が与えられていないのに、少しよそに視線をやると、「やさしさ」が当たり前のように交換されている光景を目にする。大勢の人からの「やさしさ」を当然のようにかき集めている人を目にする。

人間は、絶対評価をあまり重要視しない。他人と比べて相対的に自分がどんな位置にいるかを測ることによって、幸不幸を感じるものだ。それが社会的関係性を築くことで生き延びてきた、私たち人類という社会的生物の宿命でもある。

他者との相対的な関係で自分のことを考える私たちは、この世のどこかに「掛け値なしのやさしさ」を享受している人がいるのに、自分にはそれが与えられないことを知ると、とてもつらく感じる。

容疑者は、アニメで描かれた「この世のどこかには掛け値なしのやさしさがある」というメッセージに勇気づけられたり、元気づけられたり、励まされたりはしなかったのではないだろうか。架空の存在が「やさしさ」を交換しあっている姿ですら、自分のみじめさを相対的に浮き彫りにするものであるかのように感じたのではないだろうか。それほど容疑者は「やさしさ」に飢えていたし、「やさしさの与えられない自分」に苦しんでいたのかもしれない。

人は「やさしさの不在」ではなく「やさしさの偏在」によって深く傷つく。時として「やさしさ」が自分に与えられないことを恨む。

人はやさしく、同時に冷酷である
今後このような凄惨な事件の可能性を少しでも減らすために、「やさしさ」を与えられず、むしろ他者からの冷たいまなざしに身も心も突き刺されながら社会の隅に追いやられている人に、私たちは手を差し伸べるだろうか。

私たちは、自分にとって「やさしさ」を配るに値しないと感じる人には、有限で貴重な「やさしさ」を分配したくないと願ったからこそ、「自由で平和で安全で快適で個人的な社会」を選んだのではなかっただろうか。私たちは「自分のやさしさを分配するに値しない相手」にはとことんまで冷たくし、それによって自分の便益を最大化することに、もはやためらいを感じなくなっている。

〈弁護団によると、GHは精神障害者ら10人が共同生活を送る施設。訪問介護サービスなどを展開する「モアナケア」(同区)が18年3月、市から設置を承認された。

(中略)弁護団によると、地元の自治会長から地域住民に説明するよう求められ、同社は18年12月と19年1月、説明会を開催。出席者から「不動産価値が下がるのでは」との声が上がったという。説明会後の19年3月には、「住民の安全を守れ」「地域住民を無視するな」などと書かれたのぼりが施設周辺の10カ所以上に立てられ、開設に反対する署名約700筆が市に提出された〉(神奈川新聞『「開設反対は差別」 精神障害者GHに住民が反対運動』2019年05月24日より引用)
ある人にとっては冷酷な人であるからといって、その人が他の誰に対してもまったく血の通っていない冷酷な仕打ちをするとはかぎらない。そのような人物が、たとえばだれかを冷酷に排除しようとするとき、その裏には別のだれかの暮らしを守りたいと思うやさしい心があったりもする。人間の「やさしさ」と残酷さは、しばしばコインの裏表である。

「やさしさ」を豊かに持つ人だけで集まって暮らしていくことは快適で幸せだ。だが、その代償として「だれかが幸せに過ごしている、ただそれだけでも許せない」と感じるような人が出てくる可能性を引き受けなければならなくなった。

「透明化」された人びとの祈り
もし容疑者のような人間に「踏みとどまる何か」を与えたいと思うのであれば、「自分の好きな相手にだけ、自分のもつ有限のリソースを与えられる」という自由な社会の美徳を、一部諦める必要があるだろう。

「この世のどこかには掛け値なしのやさしさがある」というメッセージを見ても、それを「ただしそのやさしさは、お前には生涯だれからも与えられることはない」と読み込んでしまい、恨みを募らせるような人を少しでも減らすには、「やさしさの偏在」そのものを突き崩していくほかない。

しかしながら、「やさしさの偏在」がいかに人を苦しめ、時として社会全体に大きなリスクをもたらすかということを理解する人は少ない。「誰にやさしくするかは、ひとりひとりが自由に決めてもよい」 ──このような規範に疑問を感じないのも当然だ。個人のレベルにおいては、なんの悪意もない行いでしかないのだから。

「やさしさ」を与えられず、だれからも顧みられず、この社会で透明化されている人は大勢いる。そんな人びとがみな、必ずしもこの容疑者のように、社会や人びとに対して歪んだ復讐心を抱いているわけではない。むしろ彼ら彼女らは、だれも見ていない場所で、ただ静かに祈っている。

その祈りの存在に目を向けるべき時が来ている。